雑感_雑誌『太陽』_特集・瀧口修造のミクロコスモス

瀧口修造氏は富山県立近代美術館と深い縁がある……のかは知らない。氏の作品なんかが特設コーナーで展示されてたり、図書コーナーでやたら氏の作品集が置かれているのは客観的事実である。ただし、氏が富山に大してどのような思いを抱いていたか、件の美術館にどのような思いをいだいていたかは、よく分からん。館長就任は断ったらしいが、全く協力しなかったわけでもないよーな、よく分からん。

自分は一時、瀧口氏と澁澤龍彦氏をマジで混同してた(※1)。活字であまり思い入れがない名前は正確に記憶できないからって理屈だが、我ながら「瀧口と澁澤って音的にも字面的にも全く似てねーよ!!」と思う。えっと、最初に何のテキストを読んでて混同したのかは記憶してないが、多分、シュルレアリスム関連でしょ。

瀧口氏が自身も絵を描かれた(※2)のだと知ったのは、近代美術館を実際に尋ねたのが最初だったかな? 何かの書籍か雑誌で見知っていた可能性はあるが、印象には残ってないな。今現在、自分の記憶に残されてる最古の印象は、近代美術館の図書コーナーという場所・時間でもって連想される。その時の感情や思考は、正確には想起できない。想起できるほど具体的に記憶できなかったとも言えるし、あるいは、今でも続いているから、なのかもな。

氏の作品(の一部)を眺めたとき、「静謐」の一言しか浮かばない、こともある。心の雑念を強制的に消し去られて、眼前のイメージだけを見させられていると言いますか、思考も感情も消え去ってるような心持ちになる、こともある。

そして、しばらく後に、何時も続く思考がある。「これは否応なく自分を惹きつける作品であるが、しかし、これは偶然性によって生み出された、作意なき作品なのだ。自分はこの事実とどう向き合うべきだろうか。好んで自らの糧にすべきか、あるいは、嫌悪して突き放すべきか。自分はこの作品と、それによって発生する主観的事実を、どう解するべきなのか。」って具合なー。

自分は、結局、氏の作品や思考に惹かれつつも、評価を決めかねている。客観的な意味合いでの評価でなく、自身の主観における評価な。自身の天から底までを貫き通している価値観の全てでもって、どう答えるべきか、決めかねている。部分的に肯定と否定がない混ぜになっていて、統一された言葉を紡げない。

今回の読書によって、自身の課題を強く認識できた。これが収穫の第一である。

第二の収穫としては、自身の課題意識を分析的に扱うための概念カテゴリになるかもしれない用語を知れたことが挙げられる。特にオブジェ、アンフォルメ、デカルコマニー、オートマティスムあたりは、自身の課題意識と強く合致する(要素を含むように思われる)。

ああ、なるほど、自分はもっと芸術史の中で、自身の課題意識を模索すべきなんだろうな。そうすりゃ、問題意識をもっと適切に言語化して、分析的に扱う術が見つかるかもしれない。確実に可能であるかは別にして、可能性はあるかもしれない(と今の自分は思える)。こいつが第三の収穫かな。


エミール・クーエの言葉だったか、ある一文をたまに思い出す。

 「Day by day,in every way,I'm getting better and better.」



今の自分なら、別の言葉を唱えるかなー。


 毎晩、少しだけウダウダやってます。

 ウダウダやって、少しだけ睡眠不足です。

 明日もウダウダ、やれたらやるかも?

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※1
だが今でも「○○というシュルレアリストと親交があったのはどちらー?」とか二択で出されたら、多分間違えるだろーなぁ。記憶の蓄積が、逆に混同を加速させてる予感。

※2
ん〜、シュルレアリスムと言いますか、氏の創作観念に照らせば、正しくは「オブジェ」になるんかな? デカルコマニーとかって、口語的な絵の用法から外れてる気がする。適切な単語が浮かばない。まして、「描く」って動詞は、真に不適切なキガス。